少林寺拳法 修行日記

日常生活 即 少林寺拳法

武道か宗教か

海外で長年少林寺拳法の普及に努めてこられた方のブログを拝見した。
その方の持論によると、少林寺拳法は武道であると言い切っている。
そして宗教性を前面に押し出すことに違和感を覚えているような記事だった。

俺自身、少林寺拳法は紛れもない武道であると認識している。
だが同時に、宗教的側面を併せ持っていることも絶対に否定できない。

開祖自身、「秘伝少林寺拳法」の中で「GHQの武道禁止令の目を欺くために、蹴飛ばす宗教」として普及させたと述べていたと思う。
しかし同時に、少林寺拳法創設後まもなく、「黄卍教団」という宗教団体を立ち上げている。
この事実をもってしても、開祖が宗教性を重視していたことは間違いないと思う。

開祖が創設した少林寺拳法の魅力とは何か?

それは、武道と宗教の境界線の「あいまいさ」にあったと俺は思う。

単なる武道ではない。そして単なる宗教でもない。
そこに金剛禅少林寺拳法の魅力があった。

古い先生方の中には、演武だけではなく、鎮魂行を行う荘厳な雰囲気に魅力を感じたという方が何人もおられる。

俺自身そうだ。俺は鎮魂をやらない道院が信じられない。

聖句の「己こそ、己の寄る辺、己をおきて、誰に寄るべぞ。よく整えし己こそ、誠得がたき寄る辺なり」を始めとして、少林寺拳法から離れて1年半近くたつ今でも全て暗唱できる。

当たり前だ。小学生の時から数えて何千、何万回と唱えてきたからな。

学生時代は、「われらは日本人として祖国日本を愛し、日本民族の福祉を改善せんことを期す」という文句に日本人としてのアイデンティティーを刺激された。
「われらは正義を愛し、人道を重んじ、礼儀を正し、平和を守る真の勇者たることを期す」という信条を唱えるたびに、身が震える思いがした。

しかし、世の中の流れなのか、武道なのか宗教なのか、スポーツなのかよくわからない”ファジー”なものを、国が認めてくれなくなってしまった。

そこで選択したのが宗教性を前面に押し出すこと。これにより公共施設が使用できなくなったというのは、失策以外の何物でもないと思うが、宗教性を全面否定するのも違うと思うのだ。

武の道の先に宗教性があった。
これではもう、通用しないのが残念でならない。