少林寺拳法 修行日記

日常生活 即 少林寺拳法

指導者の力量

少林寺拳法にはいろんな人が入門する。下は幼稚園児から上は80代後半の老人まで。

年齢だけではない。

学生、サラリーマン、自営業者、主婦、会社引退組・・・。

家庭環境も違う。労働形態も違う。となると当然、少林寺拳法に対して求めるものが違う。

武道なのか、スポーツなのか、護身術なのか、格闘技なのか、健康体操なのか、学問なのか。それとも「宗門の行」という曖昧模糊な言葉ですべてを一括りにして終わらせてしまうのか。

俺の考え方では、すべて正しい。

すべての要素を含んでいる。少林寺拳法は。

求めるものが違う人たちが集まり、同じ時間、同じ場所で練習する。これ、相当難しいぜ?

例えば、よくネットで叩かれるように「少林寺は乱捕りやらないからな~」という批判に対して「うちはやってるぞ」とたまに書き込まれている。

そういうのを見ると、俺なんかは思うんだな。どんなルールで、どの程度のレベルでやってんのかな?と。

格闘技的な技術を求める人もいる。護身術を求めている人もいる。武術として高度な身体操法を求めている人もいる。

健康のために来てる主婦が満足するレベルと、スポーツとしてヘロヘロになるまでやりたい学生と、同じ事をしても満足度は違うんだな。コレが。

俺なんかはサラリーマンで営業職についているから、やっぱり顔に青タンを作るのはマズイ。かと言って当てない練習なんてつまらん。と、なると面が必要だ。

ちなみに他流の人たちとスパーする場合は基本的に14オンスのグローブとヘッドギアを使用している。相手のレベルも相当高いので、ヘッドギアが無かったら青タンは避けられないからな。

でも俺と同じような練習をオジサンやオバサンが求めているかと言うとそうではない。むしろ嫌う人の方が多いだろう。それはそれでいいと思う。

一番大事なのは、練習に来ている人達が満足して、明日また頑張ろう!という勇気を持って帰ってもらうことだからだ。だから俺は俺以外の人たちの目的を否定したりはしない。


指導者が技ができることなんて当たり前。しかし指導者の本当の力量とは、技が上手いだけでは計れない。




少林寺拳法は誰にでもできる武道だ。しかし、すべての人を満足させる練習とは本当に難しい。

所属している人の修行目的を正確に把握し、それぞれの目標を満足させることこそが「指導者の力量」だと思う。