少林寺拳法 修行日記

日常生活 即 少林寺拳法

亡き師へ

先生。
 
先生は自分の少林寺拳法に満足して逝かれましたか?
 
僕が高校生のころ、先生は「必ず全国(少林寺拳法の世界)で、名を知られるようになる」と言っていましたよね。
僕にはそんな先生が誇らしく思えました。
ほかの先生に技を習う機会があっても、必ず先生に確認しないと気が済みませんでした。
 
でも、いつのころからか、先生の情熱について、僕は懐疑的になりました。
門下生をたくさん集めて、金剛禅運動を広めようぜ!というわけでもない。
演武の大会で上位入賞を目指して、盛り上がろうぜ!というわけでもない。
指導者を育てようとしているようにも見えない。

ただ淡々と道院の運営だけを継続していた。

僕が不思議だったのは、少年部に関しては「厳しすぎるやろ」って思うくらいきっちり教えていたのに、一般部の教え方はホントいい加減。技の教え方ではなくて、運営がですね。

一般部の練習時間が始まっても、いつまでも自分と同年代のおじさんと話している。僕みたいに練習がしたくてしょうがない人間には、苦痛でしょうがなかったです。

多分、あの頃から先生と僕の間には溝ができ始めたんだと思います。

「あぁ、この人、きっと師弟関係を結んだことがないんだ。だから弟子の気持ちがわからないんだ」

とも思いました。最終、先生は僕のことを弟子とは思ってなかったと思いますけどね。

だからと言って先生は、少林寺拳法に対する情熱がなかったのかというとそうでもない。
ご家族もあきれていたと思う。道院の練習日だけではなく、県大会、市大会、武専、審判講習会、本部の特別武専、昇級試験。たぶん皆勤賞だったんじゃないか。

僕は興味が持てなかったけど、先生の技と理論に一部熱烈なファンがいたでしょう。
同年代の指導者と比べて、明らかに動きは群を抜いているのも確かでした。

それだけに僕はなんであんなにいい加減な道院運営なのか、納得がいかなかった。

「人を育てたい」というよりも、ただ自分自身の技の向上を目指している。僕にはそんな風に見えました。
 
あの道院は、先生の「実験室」だったと思います。自らの求める少林寺拳法を試す場。僕たちはその実験台(笑)
 
組織内では責任ある地位にありながら、僕には先生が常に何か自信なさげに見えました。
少林寺拳法の指導者でありながら、少林寺拳法に懐疑的であるように見えました。
 
特に仕事を辞められてからの先生は、精神的に少し病的な時期もありましたよ。
僕の知らないところで気苦労が多かったのだと思います。
 
先生とは最期まで分かりあうことができなかった。
逝く前に、少しは僕のことを思い出してくれたでしょうか?
僕は先生にあきれながらも、心のどこかで、いつかまた笑って話せる日がくることを願ってました。

でもその願いは叶わなかった。

これから先、僕は先生の弟子だったとは言いません。
先生もそう言われることを望まないでしょう。
周りはそう見るかもしれませんけどね。

最期まで先生と分かりあえなかった僕にその資格はありません。

ただ、僕の少林寺拳法を見てほしかったです。