少林寺拳法 修行日記

日常生活 即 少林寺拳法

技術の継承

柔法で有名なある先生の技を
 
その弟子の先生方でさえ誰も再現できないという。
 
もしかしたら到達できるのかもしれない。しかし、普通に趣味として少林寺拳法を捉えている人には
 
絶対に無理だ。
 
でも俺は思うんだな。
 
継承できないような難解な技術に意味ってあるのか?
 
特に少林寺拳法は誰もができる護身術であると標榜している。
 
誰もができるといいながら、誰もできていないような技を追い求めることに何か違和感を感じるのは俺だけじゃないと思う。
 
開祖の技術も同じだ。
 
開祖の技を伝説的に聞くことはよくある。
 
「真綿にくるまれたような柔らかな技だった」
「激痛が走る技だった」
「開祖が犬を木につないで桃陵公園の喧嘩の仲裁に入ったら、人がパタパタと倒れていった」
 
など。
 
そんな技が出来る先生はほとんどおらんやろ。
 
開祖は少林寺拳法の技術の根幹を伝えずに遷化されたと思う。
 
開祖訪中時の映像を50周年のビデオで見たが、山崎先生を観衆の前でバッタバッタと投げ倒した後に見せるような動きは今の少林寺拳法にはない。
 
晩年は技術の指導は弟子に任せっきりで、法話少林寺拳法の願いを伝えることが主な活動だった。
 
ということは、敢えて根幹に関わるような技術を伝えなかったのではないか、とさえ思う。
 
拳法の名人、達人と呼ばれる人間をつくったところで、それが世の中を変えることにつながるのか。
そうではなく、ある程度の自信が持てるだけの護身術(強さ)を身につけられればそれでいいと。
その強さを持って社会的に活躍できる人間を育てるのだと。
 
そうとちゃうかな?
 
なぜ開祖が敢えて達人技につながるような技術の根幹を伝えなかったのか。
 
その意味を考えることこそ
 
大事だと思うんだな。